「極論すれば、私たちは倍音を聞くために、この世界に現れているとさえ考えられるのです。」
なんと刺激的な言葉なのだろう。
『倍音』p11に書かれている。
音楽に好きなヒトにとって倍音について無関心ではいられない。「チェリビダッケについてのメモ」では、チェリが主張している倍音について触れている。それもややネガティブに。あらためてこの本『倍音』を読んで、考え直すと別の姿も浮かび上がってくるような。
倍音には「整数次倍音」— 基音(字のとおり実際にならされる音。ピアノなら押された鍵盤の高さ)の振動数の整数倍となる — ものと「非整数次倍音」がある。
ということはよく理解している。もうだいぶ前(今は昔?)シンセサイザー(アナログからデジタルのものまで様々)でいろいろな音を作っていたころ、どう倍音を選び調整するか大事だった。しかし、どんなにやっても、そしてどのようなシンセサイザーでも実音を完全に再現することは不可能だったけれど(かなり近い音を作ることはできてもね)。
だから音そのもの、つまり倍音については強い関心をもっていたし、それは今も変わらない。
本書『倍音』では、「整数次倍音」には「カリスマ性」、「非整数次倍音」には「親近性」があるとし、よく知っている人物、政治家、歌手、お笑いタレントなどを例にあげて説明している。
黒柳徹子、郷ひろみ、浜崎あゆみ、幸田來未、都はるみ、美空ひばり、平山みき、タモリ、稲葉浩司、氷川きよし、細川たかし、松本潤、CHAGE、長瀬智也、横山やすし、小渕健太郎、松任谷由美、内村光良、田中裕二,アンジェラ・アキ、桜井和博、大塚愛、吉田美和、南原清隆、木村拓哉、西川きよし、島田紳助、太田光、平山綾香、ビートたけし、明石家さんま、スガシカオ、宇多田ヒカル、黒田俊介、MISIA、ASKA、堺正章、桑田佳祐、青江三奈、八代亜紀、田中角栄、小泉純一郎、安部晋三、福田康夫、浜田雅功、松本人志
漫才、つまり二人で行う芸における「ボケ」と「ツッコミ」と倍音の関係には「なるほどね」と思ってしまう。
こういった親しみやすい例示だけでなく、音、倍音を介して日本、日本語、日本の文化(他国との差異)、コミュニケーション論まで著者の思考が広がりをみせる。音という文字に落とし込みにくい対象のため、これまで限られた範囲でしか関心を集めなかった(別の表現をするならば、どちらかといえば「地味」)と思われる領域に新しい視点が加わったのではないだろうか。
この尺八奏者でもある著者による『倍音』という書籍は、角田忠信の『日本人の脳』さらに推し進める。
ここに書かれていることを自分の体験と照らし合わせてみると
東京藝術大学奏楽堂でのクセナキスのコンサートやシュナイトのコンサートで感じたことに重なってくる。
クセナキスでは「音によって細胞が熱をもったかのように身体は熱を帯び」とブログに書いたのだが、『倍音』p32 にあるハイパーソニック・サウンドの記述するとおりなのだ。
26キロヘルツ以上の音(つまり可聴域外の音、超音波、高周波ともいわれる)は、皮膚から脳に伝達される。そのとき、その音により、視床の血流が増加し、脳基幹部を活性化するということです。
国際科学振興財団主席研究員、文明科学研究所所長の大橋力氏の提唱
この本は様々なことを伝えてくれる。そのすべてを書き出すことはできないが、一部を引用してみると:
時間は無意識のうちに「呼吸」によって計られています。ここに「間」の身体性が浮かび上がってきます。
p 134
音は、無意識の深い大きな領域にアプローチする貴重な手段なのです。
p 176
音楽をくりかえし聴くことは、ごく普通です。これは言語コミュニケーションよりも非言語コミュニケーションの方が、その情報量の多さにより、毎回異なった面、層を発見できる喜びがあるからでしょう。聴き手は、享受するたびに、自身のなかで再創造を繰り返ししているとも言えます。
p 197
無意識の領域におけるコミュニケーションは、明示性こそ低いものですが、真実性、信憑性の非常に高いものと言えるのです。音楽の演奏において「嘘がつけない」「人間そのものが出てしまう」などというのは、こういった点を指しているのです。
p 199
なぜ、ある人の発する声に魅了されるのか。なぜ、言葉で気持ちが伝えられるのか。なぜ心の底から感動する音楽が存在するのか。いまだ誰も、その問いに対する明確な答えを提出できずにいます。しかし、これらの背後に「倍音」が存在している、ということを見出すと、すべての謎はひとつにつながり、自然にとけはじめていくのです。
p ii
ヒトの日常生活と密接な関係にある音、倍音について解き明かしたこの本を読みたくなりません?
そして、やはり音楽は生が一番なのだろうと….